涅槃会 法要

催事

涅槃会 2月15日

「涅槃会」とは、お釈迦さまが入滅された2月15日に勤める追悼報恩のための法要です。

この「涅槃(ねはん)」とはニルヴァーナ、さとりの境地、苦しみが消滅した状態を意味します。

お釈迦さまがこの世での命を終えたこと(入滅=にゅうめつ)を迎えたことにより、身体的な苦からも脱して肉体を捨てた完全な悟りの境地「涅槃」に至ったということで「涅槃」と称しています。

お釈迦さまは紀元前5世紀ごろルンビニ(ネパールとインドの国境付近)で生まれました。

やがて人生の無常を憂い出家したお釈迦さまは、35歳でさとりを得ます。

以後、お悟りを開かれたお釈迦さまはその後、45年にもわたり、人びとに教えを説く修行の旅を続けられました。

各地を巡り、煩悩が引きおこす苦しみから逃れ、安らぎを得るという教えを人々に授けました。

その間、多くの人びとがお釈迦さまの教えに導かれ、お弟子や信者となっていきました。

伝道の旅は、80歳で亡くなられる寸前まで続きました。

その入滅の様子は経典に詳しく伝えられています。

お釈迦さまの入滅

その伝道の旅の最期の地となったのは、クシナガラという所でした。

クシナガラに到着し、死が間もないことをさとったお釈迦さまは、アーナンダに命じ、2本並んで生えた沙羅(さら)の樹(沙羅双樹=さらそうじゅ)の間に頭を北に向けた寝床を作るよう告げました。

お釈迦様が頭を北に向け、心臓のある左側を上にし、そして右脇を下にし、足を重ねて西を向いて横たわりました。お釈迦様のその寝姿から、亡くなったときに故人を「北枕」で寝かせることになったといわれ、西には、「西方浄土」があるのだともいわれています。

涅槃図には、中心に横たわるお釈迦さまが、周囲には多くの弟子たちをはじめ、菩薩、天界の神々、さらには動物や昆虫までもが集まってお釈迦さまの死を悼んで悲しみにくれている様子が、詳細に描かれています。その外側にはインドのさまざまな宗教の神も集まり、お釈迦様の亡くなってゆくことを悲しみます。

その時突然、沙羅双樹の花が一斉に開き、お釈迦さまの体に白い花びらとなって舞い散りました。

お釈迦様の周囲に生えている沙羅双樹の木は白い花を咲かせて悲しい気持ちを表すなど、あらゆる表現によって入滅の悲しみが伝わってきます。

虚空からは美しい音楽と歌が鳴り響き、また天上の花や、かぐわしい香りがお釈迦さまへと降り注いで、お釈迦さまがついに入滅の時を迎えることを告げたのです。

お釈迦さまの周りに、弟子たちや大勢の人々が集まり涙を流しました。あらゆる世界の精霊、神々、天人もここに集まり、お釈迦さまの入滅を嘆いたといいます。

いよいよ自分の死が近いことを察したお釈迦さまは、弟子たちにこう説かれました。

号泣する弟子のアーナンダに、お釈迦さまは優しく語りかけました。
「泣いてはいけない、嘆いてはいけない。私は説いてきたではないか。愛するものとはいつかは別れる、生まれたものはやがて滅する」と。
そして、アーナンダの献身的な帰依と、その徳を讃えました。

「私の亡きあとは、私ではなく自分自身をより処として、また私が伝えた教えを、闇を照らすともしびとして、歩んでゆきなさい」お釈迦さまは個人崇拝の対象となることを否定され、弟子一人ひとりが確かに、自立して進むことを求めたのでした。

お釈迦さまは、「修行者たちよ、すべての存在は変わり過ぎゆく。怠ることなく精進し修行を続け、完成させよ」との言葉を最後に、静かに入滅し、涅槃に入ったと経典は伝えています。

その後、お釈迦さまの遺骸は荼毘(だび)にふされ、遺骨は八等分され、各地のストゥーパ(仏塔)に納められました。仏塔はお釈迦さまをしのぶ人々の遺跡となり、仏教教団の拠点となっていきました。やがて遺骨はさらに分割され、インド全土に数多の仏塔が築かれたといいます。

お釈迦さまのご命日である涅槃会の日には、全国各地の寺院でこの法要の際、お釈迦さまの入滅された時の最期の様相を描いた涅槃図を掲げ、ありし日のお釈迦さまのそのご遺徳をしのぶ法要が行われます。

圓應寺でも2/15(木)11時より涅槃会を執り行います。どうぞご参詣ください。

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