~響の瞑想(meditation)~圓應寺 読誦行 2022.11

日付/時間
DATE:2022年11月8日(火) 13:00 - 15:00

会場
浄土宗照福山顕光院圓應寺

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夜の特別拝観から成道会へ

読誦/どくじゅとは、声をあげて経を読むことをいう。
お経、つまり経典は仏陀の教法を文章にまとめたもので、その「経典」を読んでゆきます。また、仏を讃え念じる念仏やマントラ(真言)、そのマントラの長文の陀羅尼なども挑戦します。
独特の節まわしである引聲(声明)や、まるで軒から落ちてくる雨のしずくの音のような均等なリズムの短聲。
響きを大切に、声を合わせる。心を一つにする「シンフォニー」を大事にします。
その経典の意味合いをも学びつつ時には梵語讃、また時には漢語讃、和讃などで「仏陀のことば」をとなえます。

言霊・音霊・呪文・祝詞など、いにしえからそこには大切なエッセンスがありました。今でも何故それが伝わっているのか目に見えないチカラがそこにあるからです。風の時代である今、実践のときです。
読誦には精神を安定させ脳を活性化する効果があります。 健康法としての読経に注目が集まっています。 読誦の発声法は腹式呼吸で、健康増進、免疫力増強、身体だけでなく心にもリラックス効果があります。 経を声に出して唱えることで脳が活性化し、心の安定・幸せホルモン「セロトニン」が生成されます。

読経にあるフロー状態とは

一定の声量で息継ぎを少なく、少しでも長い間音を出す読経。一定の息を出し続けるという行為自体がマインドフルネスです。そして、お経の音読は、抑揚のない一定のリズムが自分の耳から音が入ってくるので「超集中」といわれるフロー状態にもなりやすい。
瞑想を主体としたヨガの一部の流派ではマントラを唱てトランス状態になる人もいますが、読経にもある意味共通する要素があると思います。耳で聴くのがよいなら歌でも同じではないか、と思いますが、どうもそうではないようなのです。
その曲調に「楽しいメロディー」や「悲しい旋律」といった意図的なトーンが込められているため、情動が揺さぶられてフロー状態は得られにくいのです(もちろん、全身全霊を込めて音楽に向き合っている演奏家や歌手の場合はこの限りではありません)。
これに対し、お経のように旋律がなく、一定のリズムで続いていくものは、楽しいとか、悲しいとかいった感情に縛り付けられず、自らの意思で今と向き合うことができます。「今、自分が声を出している」という、目の前の現実だけに意識を向けられる。
意味などの価値判断にとらわれない、非常に優れたマインドフルネス実践法とも言うことができるでしょう。ただし、そのお経に書かれた漢字一つ一つの意味を無視するということではもちろんありません。
日々、一心に読経を続けてゆくことで、だんだんとその言葉に込められた意味が心にスッと入ってくるような体験もまた、マインドフルに受容することが大切です。
先ほど、トランス状態と共通の要素をお経が持っていると述べましたが、あくまでそれは「時としてみられる」心の現象です。
トランス状態になるために唱えるという目的意識の強い向き合い方は、お経の本質ではありません。ただ一心に、声を大きく、長く発し、一字一字を正しく読むことに注力してこそ、本来のお経の価値が生まれると私は考えます。

衆縁和合とは

また、修行道場では20人近くで読経を行います。この際に重要なのは、息継ぎのタイミング。お経が途切れてしまわないように、人と違う箇所で息継ぎをしなければなりません。「衆縁和合」といって、すべての人と一緒に修行をしているわけです。すべての物は、寄り合い 成り立っている。お互いをサポートする形で、お経を読まなければいけません。息継ぎのタイミングがかぶらないように、お経を読む中にも他人を思いやる行為が組み込まれているのです。

読誦の、その元来の目的は教法の伝承と教義内容の正しい理解、そして説かれたごとくに実践し、悟道を完成する精神を養うこと。
そのエネルギーを以て、祈願や回向ができるようにもなってゆきます。

初めからうまく読める人はいません。僧侶も修行の中で練習して覚えていきます。当然、最初はつかえることもあります。みなさんもつかえて大丈夫ですし、読み間違えることもあると思いますが、気にせずに読み進めましょう。声の大きさにも特に定めはありませんが、恥ずかしがらずに読みましょう。

参加費 無料
ここで読経を修して圓應寺の催事や法要で皆で声を一つにして一緒に讃嘆供養をいたしましょう。

予約

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