生きているということは、死に向かっているということです。
わたしたちは、この世に生を受けた瞬間に必ず死を迎えることを、それを定めとして生活をしています。
身近な方が「死」を迎えたとき、「葬儀」とは、改めて「いのち」について考える大切な時間となります。
お寺の本堂でおこなう”圓應寺葬”のご紹介
圓應寺のご本尊の御前で執り行う、葬送の儀について、ご紹介いたします。
愛する人を失ったとき、どうすればいいのだろうか。その人の死を受け入れるのには痛みが伴います。そして中には、その死をまだ受け入れることができない状況にある人もいるでしょう。
お釈迦さまは死を真正面から見据えることが故人への最高の供養となると説いています。遺された私たちができる限りを尽くして愛する人を送ることが愛する人の死を受け容れる唯一の方法です。
その痛みを乗り越えて、愛する人の「死」を受け入れることができたとき、あなたの「生」が変わります。そしてその、あなたに起こる変容こそが、今は亡き、愛する人にとっての、供養となるのです。
最近は随分、簡素化されてしまいましたが、今でも伝統仏教寺院の檀家では、家族の死後、枕経、通夜、葬儀、49日、1周忌、3回忌、7回忌……と、33回忌もしくは50回忌まで法要を行う慣習が残っています。しかし、近年、とくに都市部では、一連の葬送儀礼を簡素化したり、一切行わない人まで出てきました。
一方、日本のような一連の葬送儀礼が無い文化では、愛する人の死を受け入れられず、抑うつ状態のまま余生を終えていく人が少なくないといいます。
つまり日本伝統仏教の、一見面倒にすら思える、形を変えての儀式の繰り返しが、遺族にとっては、少しずつ「愛する人の死を受け入れる」練習となるのだそうです。
本来の日本の葬送儀礼に、心を養う大きな効能があることを、あらためて見直されているのです。
それは、四十九日のことを「大練忌」と呼ぶことからも分かります。大練忌とは、「もうあなたは故人のいなくなった日々や悲しみをたくさん練習したのだから、そろそろ前を向いて、自分の人生を生きてください」という、遺族の現実生活復帰に向けて背中を押す儀式なのです。
葬儀・法事などの一連の葬送儀礼は、死者のためだけではありません。愛する人の死を受け入れられずに苦しみ続ける、遺族のためでもあるのです。
儀式には力があります。そこで真摯に、手を合わせるものの心を浄化し、悲しみを癒やす力があります。心からできる限りを尽くして向かい合う供養をすることで、悲しみが癒やされてゆくのです。
そのできる限りを圓應寺はご遺族に寄り添わねばならんと考えており、【圓應寺葬】をご紹介いたします。圓應寺の本堂で愛する人のこの世からの旅立ちをご一緒に全身全霊で祈りましょう。