鬼の節分会

催事

仏と鬼

寺院での追儺式は、宗派を問わず行われています。

仏教では、「鬼」を常に飢渇きに苦しむ亡者「餓鬼」と同一視することもあり、餓鬼の世界に落ちた者、邪悪な心で人々を悩ませる者、人間に危害を加える凶暴な精霊、また地獄の獄卒などを広く「鬼」と呼んでいます。

しかし、たとえ三悪道に堕ちた餓鬼等でも救い取る浄土宗の節分は、厄払い、無病息災はもちろんのこと、阿弥陀さまのご本願に乗じて全ての人々が救われるよう祈る行事でもあります。その餓鬼をも救いとるとの思いがあるのです。

餓鬼は、生前、嫉妬深かったり、物惜しみが強い人が生まれ変わった存在とされます。その餓鬼は私たちとも無縁の存在ではなく、私たちの心のなかにも、餓鬼(鬼)と同じように、自分の幸せに執着してしまう気持ちがあります。

顧みれば、実際の鬼は外にいるのではなく、私たち一人ひとりの中にいるのではないでしょうか。限りない欲望があり、激しい怒りや妬みの心を持ち、真理を知ろうとしない愚かさが私たちにはあります。この煩悩こそが私たちの「鬼」の正体なのです。

現代の目を覆いたくなるような事件の数々。ネットという目に見えぬ巨大世界に跋扈(ばっこ)する人間ならぬ人間が人の命を平気で奪うやりとり。コロナを恐れたとき、コロナ自体よりもその影こそが恐ろしい「闇」ではなかったでしょうか。また、ひとたび世界に目を向ければ、今もなお戦争は続いています。

鬼も人も心の(よこしま)という「魔」を持って存在しています。
鬼からしてみれば、むしろ人の方が「魔」や「邪」に汚染されていると思っているかもしれません。

「人間こそが残忍非道な「鬼」だとは思わんか!?」
「あの酒呑童子さまが人間に騙し討ちにあった時の思いなど的を射ておるぞ」
鬼たちの人間に対する声が聞こえてきそうです。

自らを内観する機会

「疑心暗鬼」という言葉に「鬼」の字が含まれていることを改めて噛み締めなければなりません。

相手を知ろうとせぬ恐れの心が「(よこしま)」。「怖れの影」に呑まれれば「魔」が差し、鬼に変身してしまうのです。とかく今の世の中、その色が濃く、濃く出てき始めました。人間の心の中の「邪」と「魔」の所業なのです。

煩悩を抑え、悟りを目指すことが仏教の教えであり目標です。とはいえ、これがなかなか難しい。難しいというよりもできないと言った方がいいかもしれません。そもそも人間とは善悪の別を持たぬ両義的な存在です。

しかしながら邪気を払う節分の時期、私たち自身の心のなかにある「鬼」となってしまう欲望を払う機会と教えてくれる鬼に感謝して、仏さまのご慈悲を信じ、己の暗黒面と向き合い、闇を乗り越える『覚悟』と信念の為に斗う気高さを信じ、内なる悪や心の弱さに克己(こっき)する気概を持つことが大切なことなのです。

圓應寺 -魔を祓う- 鬼の節分会

煩悩はなくならない。しかしその愚かしい過ちに気付き、懺悔して心を改めていく「成長」。それこそが、真に人間的魅力の本質「浄め」でしょう。自らの身と心と言葉を浄め、そしてお救いいただき、諸々の厄難を払い、福を招く節分豆まき。ですから「鬼は外」とは言いません。

節分の夜、「鬼は外」と鬼が追われることに日本中代表的理解が見られるように、近世以降の鬼は、豆つぶてにさえ簡単に追い払われる姿が演出され、それによって鬼たちはこの日、慴伏(しょうふく)衰滅の結末を見せてはいます。

ですが、日本中の「鬼は外」と言われている鬼のせいにだけしないで立場を超えて一緒にお救いを求め、煩悩さえ尊いと、その感情を丁寧に受け止める「煩悩即菩提」の精神で、そして招いてしまった「魔」「邪」をしっかり懺悔して心を入れ替える「立春」前の浄めの行事です。
圓應寺の節分は、厄払い、無病息災はもちろんのこと、阿弥陀さまのご本願に乗じて全ての人々がそして鬼をも救われるよう祈る行事でもあります。

苦しみを人間の自然として受容するところに仏教の智慧の歩みが始まります。その智慧を基本にしなければ、文明は苦を排除したつもりでもかえって新たな苦しみを生み出すだけになるでしょう。

自身を見つめなおす機会を与えてくれる「鬼」は「護法善神」なのです。そして「鬼」や「煩悩」に対しても懐深い愛を芽生えさせる節分。福が到来しないわけがありません。

春はすぐそこ。

お練り行列から浄焚

先ずは、鬼門より始まるお練行列に参列ください。山門を抜け、圓應寺鬼瓦ご寳前を一回りして身を浄め、浄焚札を火にくべて手を合わせます。

札が燃えるとともに煩悩を焼きます。そして「鬼のにらみ」で魔を祓ってもらいます。それは仏さまに導かれ、自らの心の(よこしま)を、恐れの心を洗い流していくということです。

般若心経三巻を中心とした厄除祈願の後、福が舞い込む舞台上からの豆まきとなります。

「よござっしょ~!どっこいしょ~!」

圓應寺の節分会の豆まきの掛け声は「福は内~」「よござっしょ~!どっこいしょ~!」と掛け声を掛けます。「鬼は外」は言いません。「よござっしょ」は福岡弁で「結構なことです」、「どっこいしょ」は「六根清浄ろっこんしょうじょう」がなまった浄めの言葉。

すべてをお救いくださる阿弥陀さまの慈悲をいただき、立場を超えてわかり合い、その根底に流れる愛をもって心を豊かにする。結果、福を招くことになるのです。開運招福、どなたもお誘い合わせの上ご参加ください。

鬼のような人間も潜伏する世の中。日々理不尽なその傍らでこうして人間らしい人間と人間らしい鬼は 【鬼の節分会】を迎え、仏の慈悲により皆様の煩悩を消し去り、心にはいつまでも優しいお月さまの[無量の光]を灯し笑顔を導きます。立春からまた心豊かな明日(あした)を紡いでいくことでしょう。

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